『幽遊白書』 「それから…」 感想

今週の心の叫び
皆が幸福でありますように

不親切なあらすじ

幻海師範はお亡くなりになってしまったけれど、皆、元気に生きていくのよねっ!

終わりました

えーっ、実を言いますと、『宴のあと』のラストシーン(幽助と蔵馬が川べりに並んで立って、星空を見上げているところ)を見て、私はほとんど直感的に、幽遊が終わっちゃったよ、と思ったのです。
これはもう理屈なしで、あの絵と台詞を見て、これは冨樫先生は幽遊を終わらせる気だ、と確信してしまったのです。
で、その後、ずーっとずーっと、「ああ、幽遊が終わっちゃう」と考え続け、考え続けた後で、“幽遊が終わるかもしれない”という仮定の問題ではなく、“幽遊が終わる”という断定的な考えしか出てこない自分に愕然としてしまいまして……それでも、一所懸命になって、“まだ幽遊は終わってない”と自分に言い聞かせ続けていました。
私は自分の直感がはずれることを期待しながらも、この直感ははずれないという確信を持っている、という矛盾に、ずーっと苦しめられておりました。
それから後の幽遊は、冨樫先生が広げたふろしきをたたむ作業をしている、と私の目にはうつっていまして……ほのぼのではあるけれど、毎週毎週、幽遊を読むのがすっごくこわくて……ラストベージにいつ“おわり”の3文字が載るかと、それだけが心配で、実はちっとも楽しめなかったのです。
でも、終わることを完全に認めてしまったら、これを書き続けることができなくなってしまうし、何よりも意表をつくのがお得意な冨樫先生のことだから、何か一発逆転があるかもしれない、私の勘なんてまた大はずれするかもしれない、と自分に言い聞かせ、なんとか自分をだまして、ここまでひっはってきました。
『宴のあと』以降は、なんだか消化試合をやっているような気分で書いていたので、もしかしたらそれが文章に現れていたかもしれません(もしそうだったらごめんなさい)。
だから、幽遊が終わってしまって、気落ちしていると同時に実はほっとしています。
ここ1ヶ月というもの、私は幽遊を読むのがこわくてこわくて、こんな生殺し状態、いっそのことはやく終わってくれ! と、叫びたかったのです。
私のどん底は実は『宴のあと』で……私はあの回のラストシーンを見た後でしばらく泣いていました。
あの時、確かに私の中で幽遊は終わってしまっていて、それから後はいわば“おまけ”というか“番外編”だったの。
終わる終わる、と心の中で唱えながら、それでも“おまけ”でもいいから……幽遊を読んでいたかったのね、私は。
それで、こんな終わり方でよかったのか、悪かったのかはわからないけれど、ここ2年近くの私という“成分”の50%ぐらいを占めていたと思われる幽遊がなくなってしまった今、私はどうすべきかを考えてしまうわけなんですが、ここ1ヶ月というもの、それを考え続けていて、結局、出せた結論といえば、『幽遊白書』というマンガが完結しても、私の中の幽遊という“成分”が蒸発してしまうわけではなし、私はこれからも『幽遊白書』を抱え続ける羽目になるだろう、ということなんですね。
いつかそれが蒸発して、ほかの“成分”によって補填されることになるかもしれないけど、蒸発するのは結局のところ水分だけだから、幽遊の“結晶”はずーっと私の中に残り続けるはずなんですよ。
なんかよくわからなくなってきたんですけど……冨樫先生の幽遊が終わっても、私の幽遊は終わっていなくって、私はなんらかの形で決着がつくまで、もしくは幽遊の代替物ができるまでは、幽遊に執着し続けなくちゃいけないんだな、というのが、私が現在、出している結論なわけです。
はっきり言って、私はこの終わり方に満足してるわけじゃないんです。何か、もっと読ませて欲しかった部分があるような気がしてしかたがない。
それでも、最後に見せてもらったのが、皆の幸せで元気な姿で、ホッとしているのは、本当です。
誰か1人でも不幸なままで終わっていたら、私は冨樫先生を恨み続けたかもしれません(そんなのは仙水と樹さんだけで十分ですよ)。
それでも、どうしても納得できない部分かありましてね、それを考え続けていたら、私が前に書いた飛影ちゃんのための文章の、“飛影ちゃん”という文字を“幽遊”および“冨樫先生”と置き換えると、実にぴったりとその心情がはまるんだな、ということに気づいたんですよ。
で、ここからはその置き換え文です。

私はね、幽遊が好きなんです。
本当に好き。ただ単に好き。盲目的に好き。
私は幽遊が好きなだけなの。理由なんかないの。理屈をつけられないの。
でね、この“好き”っていうのは、はだから見れば実にばかばかしいことではあるけれど、かなり真剣な“好き”なんです。
これは200%(いや、それ以上か?)の片想いではあるけれど、それでも止めることのできない“好き”で、それだけに純度100%の“好き”なんです。
私は、冨樫先生に何もしてあげられない自分を、幽遊を読むことしかできない自分を、せつないことではあるけれど、それはしかたのない当然のことで、それでも私は幽遊を読み続けることができればそれで満足よ、と納得していました。
それなのにそれなのに……冨樫先生はそれさえ私に許してくれなかったのです。
私は、幽遊がそこに存在するということだけで満足しようとしているのに、冨樫先生はそれさえ許してくれないの? どうして? という気分になってしまったんですね。
じゃあ、私にどうしろというの? それでも、幽遊を嫌いになれない私は、一体、どうすればいいの? ……とまあ、それができることならば、本当に冨樫先生にすがりついて、泣いて訴えたことでしよう(苦笑)。
私はきっと、幽遊に“失恋”したのです。追いかけることさえ拒否されたのです。
それでも……私は幽遊を好きであり続けます。それだけが、幽遊に関して、私が確信している未来です。

と、まあ、こんな具合なんですが……我ながらはまりすぎてコワイぐらい、文章がはまってますね(苦笑)。
つまるところ私は、どうも冨樫先生に中途半端に置いてけぼりをくらったような感じがしてしかたがないらしいのです。
冨樫先生がどう思っているかは、このさいどうでもよいのです。他の幽遊fanの方々がどう思っているかも、別にどうでもよいのです。
何か私にとっては、書かれるべきだったのに、書かれることがなかった物語が、どこかに隠されているような気がしてしかたがないの。
それは、永久に埋もれたままかもしれないし、いずれ発見できるものかもしれないし、冨樫先生がまた別の作品で掘り出して見せてくれるものかもしれない。
いつでも、“読者に不親切なマンガ”という印象があった幽遊だけれど、最後まで不親切だったのね(苦笑)。
幽遊というマンガは多分、細かい部分まで書き込んで提示してみせる、というタイプのマンガではなくて、“余白”というか“行間”がすっごくたくさんあるマンガで、小学校だったか中学校だったかの国語の時間に習ったように、読者は一所懸命、“行間を読む”作業をしなければならないわけです。
別にそんな作業を無理してする必要性はまったくないんでしょうけれど、私ははっきり言って、それをしなければ気がすまないほど、幽遊というマンガを“征服”したいという欲望があるのです。
絶対に“征服”できるものではないとわかっていても、そうせずにはいられないというか……そんな形でもいいから、少しでも長く幽遊にしがみついていたいんですね、多分。
結局、私は幽遊に未練たらたら(苦笑)。
こちらから勝手におしかけ女房したあげくに、ある朝、目覚めたら家のどこにもいなくて、「ああ、捨てられてしまったあ」と呆然自失したあとで、「私があなたに貢いだ愛はどうしてくれんのよ!」と叫んでいるような、情けなくも哀しい女なのね、私は(たとえがむちゃくちゃ悪い)。
それでも、じゃあ、冨樫先生がどうすれば納得したのか、と聞かれても……私にはうまく答えることができない。
せめて、皆と笑顔のままでさようならできたことに満足して、「冨樫先生。次回作に期待しています」と言うべきなんだろうけど、私は今は素直に“次回作に期待”なんかできないわ!
もっともっと、幽助を飛影ちゃんを蔵馬を桑原くんを見ていたかった。
人間界、魔界、霊界の3界が、これからどのような形になって、どのような関係をつくっていくのかを見てみたかった。
幽助がつくりだした“嵐”が、なにをまきこみ、なにをつくりだすのかを、コエンマさまがこわした“壁”を、皆がどのような形で乗り越えていくのかを、ずっとずっと見ていたかった。
私がね、無茶を言っているのは、よくわかっているんです。
“物語”はいつか語り終わるものなんです。
それがね、こんなに納得できないのは、これが初めて……。
そもそも、ここまでエネルギーをつぎこんで、“物語”を読むのが初めてなので、それもしかたのないことなのかもしれないんですけどね。
それにしてもなあ……なあんか、冨樫先生にうまく逃げられてしまったような気がして、しかたないんですよね(しつこい!)。
しかし、実際、こんな終わり方をしたマンガって初めて見るような気がしますね。
なんだかんだ言って、冨樫先生はちゃんとふろしきをたたんで、それぞれのキャラクターにそれぞれの幸福な将来を示唆して、連載を終わらせてくださったんですね。
そこらへんには、やっぱり感謝しています。

これから…

なんだか、愚痴ばかり言ってるような気がするので、今週の幽遊についてちょっと書いてみましょう。
幻海師範はお亡くなりになってしまったんですね。
自分の人生はいつ終わっても悔いがないのだ、といつも言っているような方だったから(ことに戸愚呂問題に決着がついてからは)、きっと笑って死んでいったんだと思います。
幽助も今はあんなふうにさらりと幻海師範のことを語っているけれど、実際に死んでしまったと知った時は、きっとすごくつらい思いをしたんでしょうね。
それでもって、螢子ちゃんはやっぱり女神さまだった!(笑)
いや、幽助ってさ、きっとボタンを押してもなんともなくって、ちゃんと当たりを押したのだと実感した途端に、むちゃくちゃ興奮しちゃって、普段だったら絶対に言わないようなことを、おもわず蔵馬や桑原くん相手にべらべらとしゃべりまくっちゃったんだろうね。
で、蔵馬と桑原くんにニヤニヤされて、はたと我にかえったんだろうな。
幽助ってば本当にかわいいな。
で、幻海師範の遺産は、いつか妖怪たちと人間たちが共存する場になって、テレビで“怪奇! 妖怪たちが棲む山!”とか言って紹介されたりするのかもしれない(笑)。
人間の女を愛した雷禅さまの夢が、その子孫である幽助に引き継がれて、人間と妖怪の境界がなくなり、妖怪になってしまった男を愛し続けた幻海師範の土地で、妖怪たちが生きていく。
……これは、ちょっとしたおとぎ話なのかもしれないね。
そうして人間たちと妖怪たちは仲よく自由に生きていきましたとさ、という。
幽助は魔族だけどやっぱり人間で……螢子ちゃんにあまえ放題で、生きていくんだろうか。
蔵馬はこのまま、人間になりきって生きていくんだろうか……。
桑原くんはずっと雪菜ちゃんを愛し続けるんだろうか……。
雪菜ちゃんはこれからも、人間たちの世界で生きていくんだろうか……。
飛影ちゃんはやっぱり生粋の妖怪で、魔界で生きていきながらも、時折、雪菜ちゃんや幽助の夢を見るんだろうか。まだ、生まれた時のあの哀しい夢を見て、つらい思いで目覚めることはあるんだろうか……。
もしかしたら静流姉さんは、第2の幻海師範になって、妖怪たちを保護していくのかもしれないなあ……。
なんだか、そんなことをつらつらと考え続けています。
そういえば、蔵馬は中小企業の経営補佐をしているみたいですね。なんだかはまり過ぎてて笑えました。
蔵馬は小さな会社でね、適当に業績を伸ばしながら、のんびりのんびりとお仕事をやるのよ。
この子はささやかな幸福を追及するタイプたから、社員の皆と仲よくして、「お仕事の方は順調ですか?」「ええ、おかげさまでなんとかやってますよ」とかいう会話を取り引き先と交わすんだな(なんて幸せそうなの)。
ああ、その会社に入りたい! それで、仕事の合間に蔵馬とお茶するのさ!(すっごく幸せだろうな)
そういえば、ラストから3ページ目の蔵馬の笑顔がすごく印象的だったんですよ。
蔵馬はね、きっとこんなうれしそうな幸せそうな……それでもってちょっとせつなそうな瞳で、皆をみつめ続けるんだろうな、と思っちゃって。
蔵馬は、いつか消え去ってしまうとわかっている大事な大事な宝物をみつめるような目で、幽助たちを見ているような感じがする。
幽助や桑原くんと違って、これはいつか手元から離れていってしまうもの、という覚悟をきめながら、現在、自分が存在している幸福な世界を愛おしんでいるのね、蔵馬は。
これから皆が、どういう人生を辿るのかはわからない。
けれど、皆、ずーっと幸せであり続けるのだと、信じていたいと思います。
幽助はいつまでも元気でわがままで、螢子ちゃんはいつも幽助を叱りとばしていて、飛影ちゃんは見上げれば本の上で昼寝してたりして、蔵馬は志保利母さんと幸福そうに笑っていて、桑原くんは雪菜ちゃんを幸せにするために、がんばって働いているんだな。
それでもって、いつか寿命が来たらぼたんに案内されてコエンマさまのところに行って……「なかなかおもしろい人生だった」と言うのよ。
なんだか、本当におとぎ話みたいだけど(笑)。

幽遊のこと

今はまだ、私にとって『幽遊白書』というマンガがどういうものであったのかは、わかりません。
ただ、これほどに愛して、のめりこんだ“物語”は生まれて初めてだということは断言できるし、これから先も、これ以上に愛せる“物語”に出会えるかどうかはわからないです。
振り回されて振り回されて……このマンガは、愛しいキャラクターたちはどこにたどりつくのかと、心配で心配でしかたがなかったのだけれど、結局、本当にたどりつくべき場がどこにあったのかは、よくわからなかった。
それでも、物語は終わって、皆は幸福そうに笑いながら、未来に向かってしっかりと歩いていく……。
だからもう、今の私にはこれしか言えない……皆がずーっとずーっと幸福でありますように。

冨樫先生。愛しい物語と愛しいキャラクターたちを、私に与えてくださったことに、深く感謝しております。
ありがとうございました。