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『青の祓魔師』ちょこっと考察・雪男にとってのハッピーエンド

昨日のアニメ『青の祓魔師』の第24話「魔神の落胤」を観て、思ったことをちょこっと。 最近、原作でもアニメでも雪男が不憫すぎて、ぼんやりと「雪男にとってのハッピーエンド」ってどんなんかなあ、と考えていた。 要するに、雪男はどういう状態になれば「幸せ」と判定できるのか、ということなんだけど、昨日、アニメで雪男が「助けて、兄さん」と、燐に腕を伸ばしたシーンをみて、「ああ、雪男にとってのハッピーエンドってこれなんじゃないか」って思った。 子供の頃の雪男は、ああいうふうに素直に、なんのてらいもなく、まっすぐに燐に向かって「助けて、兄さん」と言える子だったんだろうな、と思う。 でも、今の雪男はそんなことはできない。 「兄さんは僕が守る」と決意した時から、雪男は「助けて、兄さん」なんて言葉は口にできなくなったんじゃないかと思う。 雪男にとって燐は、守ってくれる対象から、守るべき対象に変化してしまったから、どんなに助けて欲しいと願っていても、雪男はその言葉を吐くわけにはいかなくなった。 だからこそ、雪男が、燐の手助けを必要とした時に、素直に、なんのてらいもなく「助けて、兄さん」と口にできるようになることこそが、雪男にとってのハッピーエンドで、それは燐にとってもハッピーエンドなんじゃないかと思うんだ。 アニメがとんでも展開になってる、とか思ってたけど、燐と雪男の関係については、実はものすごくまっとうなオチをつけようとしてるのかしら、という気になってきた次第。 さて、残るはあと1話。サタンとの関係にどう決着をつける気だ!

『青の祓魔師』ちょこっと考察・「否定する快楽」

えっと、アニメの『青の祓魔師』を観てて、なんとなく思いついたことをつらつらと。 アニメ第15話『やさしい事』を観てたら、メフィストの「悪魔は常に否定する快楽の求道者であるのに対して、人の営みは中道にして病みやすい。さあて、どちらへ進もうか」というセリフが出てきて、雑誌掲載時にこの部分を読んで、?????になったことを思い出した。 「常に否定する快楽の求道者」の部分がね。わからなかった。 で、そのあとで藤堂というキャラが出てきて、ようやくわかったような気がした。 なるほど、否定することは快楽なのか、と。 みずからが生きてきた祓魔師の世界を否定した藤堂は、「否定する快楽」の求道者(=悪魔)へと生まれ変わったわけだ。 だけど、燐が「父」であるサタンを否定するのは、「父」を否定することが「快楽」だからじゃない。 サタンを否定することが、「人間」である自分を肯定することにつながるからなんだと思う。 だから燐は精神的には「人間」だと確信できるんだ。 で、そこまで考えてふと思った。 じゃあメフィスト自身は何を否定しているんだ? 200年も聖十字騎士團に力を貸す、という対価を払ってでも、否定したいもの。そこまでやらないと否定できないもの。 それはもしかして「父」(=サタン)なんじゃないのか? 否定するものが大きければ大きいほど、否定することに手間と時間をたっぷりとかければかけるほど、「快楽」は深くなるだろう。 その究極の「快楽」をメフィストは求めているんじゃないのか? それならば、藤本神父がメフィストを「親友」と呼んだ理由が納得しやすくなる。 藤本神父とメフィストの目的は完全に合致する。藤本神父はそれを知っていて、メフィストがその「快楽」の求道者であるかぎり、自分を裏切ることはない、燐を殺すこともない、と考えていた。そういうことなんじゃないんだろうか。 「肯定」を求める燐と、「否定」を求めるメフィスト。 ベクトルは正反対だけど、ターゲットは同じ(=サタンを倒すこと)。 これは物語においてライバル同士の立場としてよくある構図だ。 この物語において、燐の対になるキャラは「弟」の雪男だが、実は真に対になる者は「兄」のメフィストなんだろうか? 「中道にして病みやすい」人間である雪男は、燐を守るためにあらゆる努力を惜しまなかった。 それはもう「病的」と呼んでもいいんじゃないか、と思えるほどの...