『魔人探偵脳噛ネウロ』 HAL編を振り返ってみる

11巻が出て、コミックスでもHAL編が完結したところで、ちゃんと通して読み直してみたら、意外といろんなことを見落としていたんだなぁ、ということに気づきました。
そんなわけで、備忘録的に、HAL編についてちょっと書いてみようと思ったわけです。
なんだかおそろしく長文になってしまいましたが、おヒマでしたらおつきあいくださいませ。


/*=*=*=*=* 1.春川登場 *=*=*=*=*/

春川の登場は第31話『旅【ゆめきぶん】』(ライス編の初回)。
ネウロと弥子が温泉地に向かう電車に、旅行中の春川も乗り合わせていた、という設定。
ノートパソコンを見ながら、「今すぐにでも実証を始めたいぐらいだ…。私の偉大なる研究の成果を…!!」とつぶやいている。
後に第61話『脳【のう】』でHALが「あの直後に私は君から生まれたんだから」と言っているので、春川はこの時点でHALの設計を完了させていたことになる。

第33話『慰【なぐさめ】』で、春川は「自殺か…まぁ…仕方がないんじゃないか? 彼女は…死(ゼロ)に負けたんだ」と言い、「1と0の狭間に…私の求める世界がある」とも言っている。
「0=死」そして「1と0の狭間」という、HAL編の重要なキーワードは、ここですでに提示されていたわけだ。
このライス編とHAL編の間に、早川兄弟編、噛み切り美容師編、絵石屋編、弥子試験編がはさまるわけだから、誰が覚えてるんだ!! と言いたくなるぐらい前から、HAL編の布石が打たれていたことになる。

そして、第35話『格【ランク】』で、「君達はこの春川英輔の名前と顔を見るかもしれん。偉大な研究を成就させた男として」という言葉を残して、春川は弥子と別れる(これが今生の別れというやつだった)。
この台詞は後に、自分の研究を公にして周囲の助力をあおぐつもりだった、という春川本来の希望を示し、この時に渡された名刺が、ネウロとHALを早い段階でつなぎあわせることになる。
う~ん、用意周到。

/*=*=*=*=* 2.HAL登場、春川退場 *=*=*=*=*/

第60話『試【テスト】』の表紙で春川は再登場(半年のブランクだったよ)。
第61話『脳【のう】』でHALが初登場。
第62話『熱【ねつ】』で電子ドラッグの犠牲者が初登場。
この3分話は個人的に弥子試験編と呼んでいるんだけど、弥子は試験で苦しみ、ネウロは弥子に靴を舐めさせるためにはりきる、というギャグパート。
靴を舐めるの舐めないので3話も消費するというかなり大胆なことをやっていたわけだが(ていうかギャグマンガでもやらないよ、こういうことは)、その裏で超シリアスなHAL編がじわじわと始まっていたということになる。

第63話『火【ひ】』では、春川が大学で講義している姿が描かれ、これは後に、弥子がパスワードを解くきっかけとなったビデオに録られていたものと同じ内容と思われる。

「知能を創り出すということは…生物そのものを創り出すことに似る」
「双方とも0から創ることは至難の極みだ。今の技術ではアメーバ1匹創る事もできないし…プログラムした人工知能ではチェスに勝つので精一杯だ」
「だが、複写(トレース)ならどうか? 遺伝子の複写でクローン牛はいともたやすく生み出せる」
「知能も同じだ。脳内の電気信号を正確に複写することができるなら、最高の知能も…いともたやすく生み出せるのだ」


この言葉から、弥子は春川の求めるものにたどりついた。
HALを生み出すことはたやすかった(もちろん普通の人にはたやすいことではない)、しかし、死んでしまった知能(=生物そのもの)を創り出すことは至難の極み。
それこそ、世界中のスーパーコンピュータをかき集める必要がでるくらい、むずかしいことなのだと。

HALの『謎』を解くために必要なカードは、「刹那の存在」以外は、この時点ですべて開かれていたことになる。
ところで、当初、私はこの後の「最高の知能も…いともたやすく生み出せるのだ」という言葉が、春川の目的だと思っていた。
見事なミスリードだった‥‥。
そして、この話ではHAL編の重要人物ヒグチ(漢字が出ないのをどうにかして欲しい)も初登場する。

第65話『犯【やりたい】』では、ネウロとHALの最初の接触が行われ、ネウロが早々に撤退する。
第66話『春【はる】』で、春川はHALの暴走を知ることになるが、その事実に動揺しているところを、HALの手下となった自分の助手たちに殺されてしまう。
この時のとどめを刺す江崎さんがいつ見てもめっちゃコワい。子供の時に見てたら、トラウマになりそうな感じだ。
そして、「1」であった春川は「0」になり、「1と0の狭間」にいるHALが残る。

/*=*=*=*=* 3.ネウロ.VS.HAL *=*=*=*=*/

春川というストッパーがいなくなり、HALは本格的に動き出す。
電子ドラッグを蔓延させ、同時に、唯一の障害と認知したネウロの排除を実行する。
お互いの探りあいをしていたネウロとHALは第71話『潜【もぐる】』で、最初の本格的な激突をする(このネウロとHALのネット世界での戦いの描写がなんともカッコイイ)。
この時はネウロの完敗。なにせ、あのネウロが「勝てない」と口にしたぐらいだ。
しかし、ネウロはHALから手を引くことなどまったく考えない。
HALの『謎』こそが、自分が求める『究極の謎』なのではないかと考え、逆にテンションがあがってしまう。
さらに続くネウロとHALの対立の中、第74話『刺【さし】』で弥子とHALは初めて対峙することになる。
当初からHALの目的についてぼんやりとした疑問を抱いていた弥子は、ここで直接、騒動を起こす動機を尋ねる。

「言っておくが春川と私の目的は同じだ。生きる事だ。1と0の狭間の世界で何としてでも生きる事だ」
「だがそれは…私には可能で春川には不可能だった」
「この目的を達成できないなら…我々にとっては死んだと同じ事だ」
「彼がそれを知って絶望する前に…楽にしてやっただけだ」


それが弥子の疑問に対するHALの回答。
この時、HALの背景には樹が描かれている。
それこそ今になってわかるわけだが、この樹は、春川と刹那のつながりを象徴するものだ。
これはもう、後から読み返してニヤリとしてください、的なものとしか思えない。

/*=*=*=*=* 4.ヒグチ介入 *=*=*=*=*/

ネウロとHALの対立に、電子ドラッグに対するワクチン製造、という形でヒグチが介入してくる。
ワクチンは絶大なる効果をあげることになるが、それによりHALはヒグチの存在を知り、みずからの手駒として取り込んでしまう。
第78話『逃【にげ】』から第81話『半【ごじゅっぱ】』の4話分が、ネウロ.VS.ヒグチの攻防戦となったわけだが、このマンガの中でもっとも派手な追いかけっこが展開される、絵的にかなりおもしろいパートだ。
ぎりぎりのところまでネウロを追い詰めたヒグチだったが、結局、弥子に説得(?)され、矛は収められた。
そして、この時点で魔力の使いすぎによるネウロの弱体化が顕著になり、ネウロのみでHALと戦い続けることは不可能だと、弥子は思い知る。
それまで、「万能」で「無敵」だったはずのネウロは弱り果て、それでも、『謎』への強い欲求と高いプライドは決して損なわれることがない。
HALの『謎』を喰うことをあきらめる、という選択肢はなく、ネウロは自分の勝負の重要な部分を弥子に丸投げした。
それは「傀儡」であったはずの弥子には、あまりにも重い役目だった。
この戦いはネウロのものだと思って、ただ騒動に振り回されるばかりだった弥子が、ここにいたって、傍観者のままではいられないことを悟るわけで、ここから、弥子の重要性が一気にクローズアップされる。
そして、HALはヒグチがネウロをひきつけている間に、まんまと原子力空母オズワルドの乗っ取りに成功し、HAL編は最終ステージに突入する。

こうして見ると、春川→HAL→ネウロ→ヒグチ→弥子、という巻き込みの構図が浮かび上がってくる。
つまりは、両端の春川と弥子の二人が、このHAL編の両輪ということなんだろう、と思う(ネウロはエンジンかな?)。

/*=*=*=*=* 5.弥子の解答 *=*=*=*=*/

HALのパスワードの解読をネウロに一任され、とまどった弥子だったが、アヤのはげましもあり、みずからの役目を果たそうと決意する。
そこで弥子がとった手段は、ただ丹念に春川の人生の足跡をたどること。
「近道は存在しない。私が『謎』を解くには…一歩一歩進むしか無いんだ」
この台詞が、確かな決意を持って、みずから解答を求めて行動する弥子を見事に表現している。
そして、手当たりしだいに手がかりを求め続けた弥子は、ひとつの「確信」に行き当たることとなる。

動機にまったく関心がないネウロに対して、弥子は動機だけで『謎』を解く。
それは、アヤの事件ですでに明示されていた、弥子が持つ稀有な能力。
そして、ネウロを補完する存在としての弥子が、この時点で確立されたように思う。

/*=*=*=*=* 6.消去へのカウントダウン *=*=*=*=*/

第87話『3【さんにん】』で、早川兄弟が調達した軍用ヘリに乗って、ネウロと弥子は原子力空母オズワルドに乗り込む。
パスワードという壁を隔てて対峙するネウロとHAL。そして、その壁を弥子のパスワード入力が打ち砕いた(この時のパスワードの砕け散るイメージのなんと美しいこと!)。

第88話『2【ふたり】』で、ネウロはHALの謎を喰い尽くし、ぼろぼろになったHALは弥子の「解答」が「正答」であるのかを確認する。
「答え」は「単位」そして「人の名前」。
弥子が正答を導き出していたことを知ったHALの顔は、満足そうに見える。
サブタイトルの「2人」は、「弥子とHAL」そして「春川と刹那」の二重の意味を持っているものと思われる(喰べるのに夢中なネウロは除外)。

第89話『1【ひとり】』では、春川と刹那の物語が語られる。
このふたりの間に甘い会話などひとつもない。けれど、ふたりの距離が急速に近づいていく様子がはっきりとわかる。
「私がこの先、どんなに壊れても、今の私を忘れないで」
「今、ここであなたと話している…この一瞬の刹那を忘れないで」

この刹那の言葉こそが、この事件の最後のキーワードだったのかもしれない。
「ひとり」なのは、刹那の方か、春川の方か‥そんなことを考えるとせつなくなるタイトルだ。
「脳の一部が壊れ、凶暴化し、とてつもない力で暴れまわる」という刹那の症状は、そのまま電子ドラッグにハマった人達の症状にあてはまる。
もしかして、刹那の研究データが電子ドラッグ製作に活かされていたのかなぁ、と思うと、そこまでしてでも、刹那を復元したかったのか、という感じがする。

第90話は『0【-】』。
今までのサブタイトルの中で、唯一、読むことを拒絶されたタイトル。
あえて読むならば、私は【void】と読みたい。
英語としては「無」「無効」「無益」そして「空虚」、プログラミング言語としては「何も示さない」ことを示す言葉だ。

「1ビット足りとも違うことない君を造ろう」
この言葉が私には一番、重かった。
ビットは「1」と「0」だけで構成されるもの。そして、プログラムのすべてはビットで構成される。いわば、人間にとっての細胞のようなものだ。
これがひとつも違わない、というのは、すべての細胞が同じ人間を造る、ということと同義になるんだろう。
でも、プログラムが動くのはビットが動く(「1」と「0」の切り替えを行う)からで、それが「生きている」状態ということだ。
生きている限り「1ビットも違わない」状態はつくれない。
この根本的な矛盾が、私にはとても重く感じられたのだった。

HAL編のクライマックスであるこの話は、主人公であるはずのネウロは最後の2ページしか登場せず(弥子が後ろ姿を思い浮かべたのはとりあえず除外)、春川の回想と、HALと弥子のやりとりに費やされている。
このHAL編は、ネウロのためではなく、春川と弥子のために存在した、ということを示しているのかもしれない。

結局、春川の刹那への想いは、弥子の心に足跡を残しただけで、HALと共に消去された。
もしかしたら、春川は誰かに伝えたかっただけなのかもしれない。
自分の中の「刹那」という存在を、自分が「0」になってしまう前に。

HALは人間世界に災厄しかもたらさなかったが、弥子はそれでもHALに共感し、HALを赦し、HALのために涙した。
春川はあきらめと共にこの世を去ったのかもしれないけど、HALは満足して消滅したのだと、弥子に教えてあげたかった。

/*=*=*=*=* 7.忘却と再生 *=*=*=*=*/

第91話『忘【ぼうきゃく】』はHAL編の後始末をつけるための一話。
警察を辞めるかと思われたヒグチは、笛吹の説得(?)に応じ、警察に留まることになった。
個人的には、桂木弥子探偵事務所入りして欲しかったんだが、笛吹の言葉に感極まるヒグチの姿に、今のこの子に必要なものは、理解してくれる人(弥子)よりも、自分を見捨てない大人(笛吹)なのだなぁ、と思った。
そして、人間も魔人も、元の生活に戻ったが、ネウロと弥子の関係は微妙に変化した。

そして、たくさんの被害者と日本経済の混乱を生み出した物語(ものすご~くひどいことをやってたんだな、HAL)は、秋の到来と共に幕を閉じたのだった。

早い時点から準備されていたと思われるこのHAL編は、『魔人探偵脳噛ネウロ』という物語の2年間の連載のうちの約1/4を占めている。
しかし、それでもたかが半年。
半年だけでこれだけの密度の物語を展開させ、きっちり片をつけたことに、あらためて驚かされる。
努力だけでは生み出すことができない、独特の天賦の才をみせつけられた感がある。
いろいろと無理のある設定がてんこもりなのに、気がつけば、ガンガンと脳を揺さぶられている自分がいる。
『魔人探偵脳噛ネウロ』はもしかしたら「合法ドラッグ」の一種かもしれない。
それが、私の今のところの結論なのだった。


もし、最後までおつきあいくださった方がいらっしゃいましたら、どうもありがとうございました。