『青の祓魔師』ちょこっと考察・「否定する快楽」
えっと、アニメの『青の祓魔師』を観てて、なんとなく思いついたことをつらつらと。
アニメ第15話『やさしい事』を観てたら、メフィストの「悪魔は常に否定する快楽の求道者であるのに対して、人の営みは中道にして病みやすい。さあて、どちらへ進もうか」というセリフが出てきて、雑誌掲載時にこの部分を読んで、?????になったことを思い出した。
「常に否定する快楽の求道者」の部分がね。わからなかった。
で、そのあとで藤堂というキャラが出てきて、ようやくわかったような気がした。
なるほど、否定することは快楽なのか、と。
みずからが生きてきた祓魔師の世界を否定した藤堂は、「否定する快楽」の求道者(=悪魔)へと生まれ変わったわけだ。
だけど、燐が「父」であるサタンを否定するのは、「父」を否定することが「快楽」だからじゃない。
サタンを否定することが、「人間」である自分を肯定することにつながるからなんだと思う。
だから燐は精神的には「人間」だと確信できるんだ。
で、そこまで考えてふと思った。
じゃあメフィスト自身は何を否定しているんだ?
200年も聖十字騎士團に力を貸す、という対価を払ってでも、否定したいもの。そこまでやらないと否定できないもの。
それはもしかして「父」(=サタン)なんじゃないのか?
否定するものが大きければ大きいほど、否定することに手間と時間をたっぷりとかければかけるほど、「快楽」は深くなるだろう。
その究極の「快楽」をメフィストは求めているんじゃないのか?
それならば、藤本神父がメフィストを「親友」と呼んだ理由が納得しやすくなる。
藤本神父とメフィストの目的は完全に合致する。藤本神父はそれを知っていて、メフィストがその「快楽」の求道者であるかぎり、自分を裏切ることはない、燐を殺すこともない、と考えていた。そういうことなんじゃないんだろうか。
「肯定」を求める燐と、「否定」を求めるメフィスト。
ベクトルは正反対だけど、ターゲットは同じ(=サタンを倒すこと)。
これは物語においてライバル同士の立場としてよくある構図だ。
この物語において、燐の対になるキャラは「弟」の雪男だが、実は真に対になる者は「兄」のメフィストなんだろうか?
「中道にして病みやすい」人間である雪男は、燐を守るためにあらゆる努力を惜しまなかった。
それはもう「病的」と呼んでもいいんじゃないか、と思えるほどの献身ぶりだ。
けれど、雪男はあらゆる犠牲をはらって祓魔師になったのに、今号の『SQ.』をみている限りでは、処刑宣告をされた兄・燐のそばにいることさえできないありさま。
それなのに、メフィストには燐を守る力がある。
今までをふりかえってみても、燐をもっともよく守っているものは、明らかにメフィストの力なのだ。
雪男の想いは燐を守れない。
どれだけがんばっても、「人間」としての限界がある。
そして、その限界まで足を踏み込んだ藤本神父は、皮肉にも「悪魔」の器になって死んでしまったのだ。
雪男にしてみればやってらんないだろうなあ。
そして、いつか雪男は「否定」するのかもしれない。
兄を守れない「人間」である自分を……って、ホントにそうなりそうでやだなあ。
というわけで、思いついたことを覚書的に書いてみました。
まとまりのない文章でごめんなさい。
アニメ第15話『やさしい事』を観てたら、メフィストの「悪魔は常に否定する快楽の求道者であるのに対して、人の営みは中道にして病みやすい。さあて、どちらへ進もうか」というセリフが出てきて、雑誌掲載時にこの部分を読んで、?????になったことを思い出した。
「常に否定する快楽の求道者」の部分がね。わからなかった。
で、そのあとで藤堂というキャラが出てきて、ようやくわかったような気がした。
なるほど、否定することは快楽なのか、と。
みずからが生きてきた祓魔師の世界を否定した藤堂は、「否定する快楽」の求道者(=悪魔)へと生まれ変わったわけだ。
だけど、燐が「父」であるサタンを否定するのは、「父」を否定することが「快楽」だからじゃない。
サタンを否定することが、「人間」である自分を肯定することにつながるからなんだと思う。
だから燐は精神的には「人間」だと確信できるんだ。
で、そこまで考えてふと思った。
じゃあメフィスト自身は何を否定しているんだ?
200年も聖十字騎士團に力を貸す、という対価を払ってでも、否定したいもの。そこまでやらないと否定できないもの。
それはもしかして「父」(=サタン)なんじゃないのか?
否定するものが大きければ大きいほど、否定することに手間と時間をたっぷりとかければかけるほど、「快楽」は深くなるだろう。
その究極の「快楽」をメフィストは求めているんじゃないのか?
それならば、藤本神父がメフィストを「親友」と呼んだ理由が納得しやすくなる。
藤本神父とメフィストの目的は完全に合致する。藤本神父はそれを知っていて、メフィストがその「快楽」の求道者であるかぎり、自分を裏切ることはない、燐を殺すこともない、と考えていた。そういうことなんじゃないんだろうか。
「肯定」を求める燐と、「否定」を求めるメフィスト。
ベクトルは正反対だけど、ターゲットは同じ(=サタンを倒すこと)。
これは物語においてライバル同士の立場としてよくある構図だ。
この物語において、燐の対になるキャラは「弟」の雪男だが、実は真に対になる者は「兄」のメフィストなんだろうか?
「中道にして病みやすい」人間である雪男は、燐を守るためにあらゆる努力を惜しまなかった。
それはもう「病的」と呼んでもいいんじゃないか、と思えるほどの献身ぶりだ。
けれど、雪男はあらゆる犠牲をはらって祓魔師になったのに、今号の『SQ.』をみている限りでは、処刑宣告をされた兄・燐のそばにいることさえできないありさま。
それなのに、メフィストには燐を守る力がある。
今までをふりかえってみても、燐をもっともよく守っているものは、明らかにメフィストの力なのだ。
雪男の想いは燐を守れない。
どれだけがんばっても、「人間」としての限界がある。
そして、その限界まで足を踏み込んだ藤本神父は、皮肉にも「悪魔」の器になって死んでしまったのだ。
雪男にしてみればやってらんないだろうなあ。
そして、いつか雪男は「否定」するのかもしれない。
兄を守れない「人間」である自分を……って、ホントにそうなりそうでやだなあ。
というわけで、思いついたことを覚書的に書いてみました。
まとまりのない文章でごめんなさい。